観測者

時刻は23時をまわったばかり。辺りは随分と前から真っ暗だ。
ついさっきまで、僕は所沢駅前のプロペ通りで遊んでいた。何をして遊んでいたかは覚えていない。
ゲームセンターにいたのかもしれないが、23時で閉店という事なので追い出されたわけだ。
周りを見渡せば、人はまばら、立ち並ぶ店はほとんどがシャッターを降ろしている。
しょうがなく止めてあった自転車まで戻り、家へ帰る事にする。
瞬間、中学校の同級生だったS藤を見た気がしたが、すでにその姿はない。
「もうこんな時間か・・・家に帰らないとな」
だが、それは普段の家に帰るという感情ではない。
久しぶりに住み慣れた我が家に帰る、そんなニュアンスを含む感情だった。

自転車にまたがり、見慣れた道を疾走する。
しかし、気が付くと違う道を走っている。どうやら道を間違えたようだ。
少し困ったが、帰るためには前に進むしかないようなのでひたすら進んでみることにした。
すると大きな道にぶちあたったので、そこを北上(感覚的に北ではあったが、本当に北かはわからない)。
さすがに時間が遅かったので少し急ごうと立ちこぎをしてみた。
が、なぜか一瞬で自転車では考えられない(車でも考えられない)ような速度に到達し、突き当たりの壁に激しく激突する。しかし痛みは無い。
やってしまった、と思ったが道の選択は間違っていなかったらしく、目前には自宅のあるマンション(Kハイツ)が見えていた。

だが・・・何かおかしい。
さっき23時をまわったばかりだったというのに既に空は明るくなりはじめている。
といっても今日は曇りらしく、日はほとんど差さない。本当に、うっすらと明るくなっているような感じだ。
それに、マンションの雰囲気も違う。何が違うとは言い切れないが、何かが違う。それだけはわかる。
敢えて言うならば、形だけが全く同じ造りになっている別のマンション、という感じだ。
しかし、だからといって家を目前にしてどこかへ行くわけにもいかない。そもそも家に帰るためにここまで来たのだ。
が、東側の入り口は何か「ヤバイ」雰囲気がしたので、避けて西側の入り口から入る事にした。
A棟を通過し、B棟を通過したところである異変に気づいた。

───C棟がない。

家に来た事がある人は知っているかもしれないが、自宅のあるマンションはA棟・B棟・C棟の3つにわかれていて、自宅はその三番目、C棟にある。
だが、その帰るべきC棟が見当たらない。いや、正確には「見えなかった」のかもしれない。
訝しく思いながらもB棟と、本来ならC棟が在るべき場所の間の道を通る。
空が明るくなってきたとはいえ、まだ時間が早いのか、人の気配は全く感じない。
しかしそんな事は全く気にせず、B棟の東側の通路へと入っていく。
するとそこには自転車止め(?)が存在し、どうやらここから先を自転車で通るのは不可能になっているようだ。
仕方がなく自転車を降り、先ほど「ヤバイ雰囲気がした」東側の入り口へと向かっていく。
そしてB棟を出ようとしたその時、体中に水滴が襲い掛かった。

「雨?」
いや、そうではない。
空は何時の間にか晴れている。雲一つ無い、快晴だ。
ふと目を前に向けると、第一集会所前にできた大きな水溜りのちょうど真ん中で、女の子が跳ねているのがわかった。
見た事もない顔だったが、その容姿から「少女」でも「女性」でもない事は瞬時に理解できた。
先ほど降った「雨」も、この女の子が水溜りの中心で跳ねた事によって起こったものだろう。
だが、その光景はとても異様なものだった。
女の子が、まるでスローモーションのビデオを見ているかのように、ゆっくりと跳ねるのだ。
また、同時に跳ね上がる水もスローモーションのようにゆっくりと動く。意識すれば避けられるかもしれないほどゆっくりだった。
さらに、女の子の行動も異様だが、何よりその異様さを際立たせていたのはその表情だ。
これ以上ないのではないかというほどの笑顔。何が楽しい、もしくは嬉しいのかはさっぱり理解できないが、とても素晴らしい笑顔だった。

そんな女の子を横目に、特に用があるわけでもないので通過しようとする。
女の子の跳ねるすぐ脇を通るのだから当然水が跳ねて濡れるわけだが、さっきから今の瞬間までにすでにずぶ濡れになっていたので問題ではなかった。
そして、そんな僕に向かって、最高の笑顔をこちらへと向けてくる女の子。
そのあまりの笑顔に圧倒され、精一杯の愛想笑いを返す僕。
───その瞬間、一つの事に気がついた。

丁度女の子が真横にいたその瞬間、僕はものすごい速度で体を180度回転させ(もちろん女の子の側を向かないように)、歩き出そうとした。
しかし、突如、背中から腰にかけてゴムのようなもので「斬られた」。
とはいえ、本当にゴムのようなものだったらしく、服や皮膚などが切れている様子や痛みもない。
ただあるのは「突然、背後から斬りつけられた」という事に対する衝撃だけだった。
後ろを振り返ると、当然そこにいたのは先ほどの女の子、最高の笑顔を湛えたままだった。
「どうして、こんな事を?」
そう言おうとした瞬間、女の子は突然、どこからともなく大きなブーメランを取り出し、振り向いた僕の背後へと思いっきりぶん投げた。
慌てて飛んでいった方向へ振り返ると、そのブーメランは物凄い勢いで飛んでいったかと思うと、空中で静止し、やがてこちらへ向かって猛スピードで飛んできた。
しかも、それはちょうど僕の頭めがけて一直線に飛んできている。危険を察知した僕の脳は右手を頭の前へと動かした。
次の瞬間、右手に激痛が走り、飛んできたブーメランはさっきまでのスピードを全く感じさせず、ぽとり、と足元へと落ちる。
見ると、右手の平がざっくりと切れている。そこからは血がどくどくと噴き出し、ズキンという痛みも感じた。
後ろへ振り返ると、女の子は、足元へ落ちたブーメランを拾い、さっきと全く同じフォームで投げるところだった。
そしてそれは手から放れ、全く同じ軌道を描くブーメラン。同じような場所で静止し、また同じような動きで僕の頭を狙ってきた。
しかし、こちらとしても二度も手を切るのは御免なので、必死にキャッチをする。
切れた右手がズキンとまた痛むので、この怒りをブーメランに乗せてあさっての方向へと飛ばした。

「どうして、こんな事をしたんだ!」
少し強い調子で女の子を怒鳴ると、女の子の表情からは笑顔が消え、すぐに大きな声で泣き出してしまった。
これではまるで僕が悪者みたいではないか、と思いながらも一つの事実に気が付いた。
C棟が、ある。
何時の間にか、僕と女の子はC棟とそのすぐ脇を通る道路の間にいた。
すでに時間は昼頃なのか、車は割と多く、スピードも結構出ている車がほとんどだった。
しかし、右手に時折走る痛みと血が止まる気配はない。
「どうせ、貴方だって死んでしまうのよ!」
突然女の子が叫んだ。
一瞬、何を言っているのだろう、と思った。

ふと思い出したようにC棟を見上げると、それは僕の知っているC棟ではなかった。
至る所に防犯用と思われるカメラと犯罪者を撃退するための銃が設置され、警備のためのロボット(以下、警備)が廊下を徘徊する。
建物は数十階まで増築され、上の階へ行くための大型・高速エレベーターも設置されている。
恐らく、最初は「完全防犯型住居」のような形で売り出されたのだろう。
しかし、実際に住んでみると規則が厳しく、住民でも少し違反するだけで警備、もしくは設置された銃によって撃たれるという恐怖のマンションへと変貌していた。
それでも、防犯に対する信頼性だけは半端ではなかったらしく、一部の住民はこのシステムを賛辞したが、大多数の住民は厳しい規則に耐え切れず、引っ越すか殺されるかした。

「家族は、まだこのマンションで暮らしているのだろうか?」
そんな事を考えていると、さっきまで後ろで泣いていた女の子が、何時の間にかC棟の手すりを思いっきり、そして何回も叩いていた。
これは「住居の破壊」に相当する行為で、警備による警告がまず行われ、それを無視した場合には撃たれる事もある、ということを思い出した。
僕は、すぐに女の子に行為をやめるように説得したが、全く聞きいれる様子がないので、情けないことだが、仲間と思われてはたまらないと逃げる事にした。
しかし、逃げようとしたその時、ちょうど警備が奥の方からやってくるのが見えた。間に合わない。
逃げる事ができないのなら、とすぐそばにあった壁に隠れようとする。
その壁に隠れるか隠れないかというその時、女の子が警備によって撃たれるのがわかった。
そして女の子は自分の背中越しに言った。「私の事、愛してくれる?(好きか、ではなく可能か、といったニュアンス)」
死んでいくであろう女の子に同情したのかもしれない。僕は「ああ」とだけ返事して、すぐに自らの過ちに気づいた。
そう、今のやりとりによって、警備は僕を女の子の「仲間だ」と認識したのだ。
次の瞬間、僕の体を冷たい銃弾が突き抜け、