一人目

「明日は食事会があるから、絶対に遅刻しないでね」

あまりに突然のことだったので、つい、え?と聞き返してしまった。

「明日は私の両親と一緒に食事をするのだから、絶対に忘れてはいけないと言っているの」
『え・・・、そう言われても、いきなり明日だなんて』
「私は1週間前にも言ったつもりでしたけれど」

確かに、正確には6日前になるのだが、明日が暇かと聞かれたような気がする。しかし、その時は具体的な説明はなかったはずだ。単に彼女が会いたいだけだろうと考えたのか、深く詮索せずに暇だ、と答えてしまった自分が恨めしい。そういえば、今日は彼女がどことなく落ち着かない様子だった気がする。この話を切り出すタイミングを計っていたのだろうか。

「私の両親はとても気難しい人たちなの。だから、絶対に遅刻なんてしてはいけないわ」
『でも・・・、君の両親は、そのためにわざわざここまで?』
「仕方がないでしょう。あの人たちは一度言い出したら聞かないんだから」

そのためだけではない、という言葉を期待していた僕は少なからず落胆したが、仕方がなく了解することにした。いや、せざるをえなかった。彼女はほっとしたようだったが、それからはあまり会話も弾まなかった。しばらくしてから、彼女はごめんなさい、と一言呟いてから帰っていった。僕が気を悪くしたとても思ったのだろうか。重圧を感じないと言えば嘘になるが、それほど気に揉む必要もないだろうと思い、寝た。

翌日、僕は1時に目が覚めた。まずい。待ち合わせの時刻は確か1時だったはずだ。既に逆立ちしても間に合わないのは明白だが、急いで出発の準備をした。ここから街までは自転車でも15分はかかる。自動車なんていう文明の利器は当然持ち合わせていないので、15分以内に街まで行く方法はない。そんな時、僕は彼女が昨日言った言葉を思い出した。

「間違っても、のんびり歩いてきて遅れちゃいました、なんてことにはならないように」

それだ。街までは歩いていけば1時間ほどかかるが、徒歩だろうが自転車だろうが既に遅刻していることに変わりはない。彼女は真っ赤になって怒るだろうが、そもそも無茶を言い出したのは向こうじゃないか、と勝手な理屈を並べて納得することにした。

そうと決めたら話は早い。僕はすぐに家を飛び出した。しかし歩きとはいえ、さすがに1時間も待たせるのはどうかと思い、走ることにした。脚力に自信があるわけではないけれど、今日はそれほど暑い日でもない。風が少しあるので走った方が気持ちいいだろう。いつも通りにぎやかな大学通り (大学に隣接した通りなのでこう呼ばれている─昼頃は学生であふれかえるので、自動車はこの道を通らないようにしているようだ) を抜け、見慣れた街の風景が見えてきた。20分くらいはかかっただろうか。さすがに疲れたので、ここから先は歩くことにした。

街の大通りを抜けて目的の建物が遠目に見えてきたとき、タイミング悪く踏切にぶつかってしまった。この線路は貨物列車しか通らないのでいつもは開きっぱなしだが、たまに貨物列車が通るときは閉まる。いや、それは当たり前なのだが、貨物列車というやつは普通の客車と比べてとても長いので、踏切が開くまで時間がかかってしょうがない。なんて運が悪いのだろうと思ったが、さすがに閉じている踏切を渡るわけにはいかないので待つことにした。

そんな時、どかっと音がしたので見てみると、一台のトラックが踏切をぶちやぶって中へと侵入したようだ。しかも故障でもしたのだろうか、トラックは踏切の中から抜け出そうとしない。これはまずいなと思い、踏切から少し離れることにした。そこへ猛スピードでつっこんでくる貨物列車。鳴り響く警笛。しかし、トラックは奥の側の線路にいたが、この列車は手前側の線路を通過していった。事故は免れたのだ。そう思った瞬間、反対側から来た貨物列車がトラックに突っ込んだ。なんというお約束な展開だろうと思ったが、脱線して横転する貨物列車、そして吹き飛ばされてぼろぼろになったトラックを見るとそう不謹慎なことも言っていられない。そして何よりも (恥ずかしながら) 今は自分の心配をしなければならないのだ。こうしている間にも刻々と過ぎていく時間。彼女はどう思っているだろうか?彼女の両親は怒って帰ってしまっただろうか?どちらにしろ彼らに最悪な印象を与えたのは間違いない。となると、今ここですべきことは一刻も早く目的地へと向かうことだ。そう考えた僕は、事故でごった返す群集をかき分け、勝手に手前の線路の脇を歩いて次の踏切を目指すことにした。こんなことがあったのだから、こちら側を通る貨物列車も止まっているだろう。そもそも本数が少ないのだから、こうやって線路脇を歩いていても列車と遭遇することは滅多にないだろうが。

そして5分ほどで次の踏切に到達したので線路から出た。目の前には目的の建物。意外な近道になったことを喜びながらも、これから待ち受けるであろう苦難を考えるとどうしても頭が痛い。自業自得といえばそれまでなのだが。僕はもちろんこのような立派な建物の中に入ったことがなかったため、ずっと銀行か何かかと思っていたが、どうやらかなり高級な料亭のようだった (なぜこのような洋風の建物なのだろうか、という疑問も浮かんだが、考えないことにした)。時間を確認したところ、30分を少しまわったところだ。僕は意を決して建物へと入っていった。

その時、はじめて間違いをしていたことに気が付いた。そう、この建物は本来僕に用があるような建物ではない。僕は急いでいたこともあり、深く考えずにいつもどおりの服装で来てしまったが、周りを見てみると客はおろか店員までが僕の服の十倍、いや、百倍は下らないであろうものを着ていた。僕は完全に固まってしまった。その様子を見た何人かの客がくすくすと笑ったが、目の前のカウンターに佇む店員は眉毛一つ動かさなかった。これで店員にまで笑われてしまったら僕はすぐさま逃げ出していただろうが、なんとか気を持ち直して用件を告げた。店員は短くご案内いたします、とだけ言うと僕を店の奥へと案内した。

置いていかれないようについていくと、案内された先は地下にある小さな個室だった。中に入ると、いつもとは違う雰囲気のドレスを来た彼女と、高貴そうな─実際そうなのだが─初老の紳士と淑女がいた。二人の面持ちは険しさこそなかったものの、笑顔の欠片も見られなかった。彼女の方へ目をやると、彼女はぽかんと口を開けて今にもしまったと言いたそうな顔をしていた。そして数秒すると我を取り戻したのか、僕をきっと睨みつけた。いつもの彼女ならまくし立てるような口調で僕を散々罵っただろうが、両親の目の前ということでそんな「はしたない」真似などできないようだった。

『すいません、遅れてしまって』

僕はそう言いながらずかずかと自分の席 (不自然に空いていたのできっとそうだろう) へと進んでいった。こういう自分の図太い性格があまりよくないことは知っていたが、性格なんてものはすぐに直せないのだからしょうがない。彼女の両親はそんな僕を見ても全く表情を変えなかったが、彼女の顔はみるみる青くなっていった。僕の図太さは留まるところを知らないようで、失礼しますと言うと相手の言葉も待たずに腰掛けてしまった (説明し忘れたが、この小部屋は座敷になっていて、言うならば掘りごたつのような構造になっているのだ)。

するとタイミングよく料理が運ばれてきた。いや、もしかしたらずいぶんと前から完成していたのかもしれない。僕は彼らだけでなく店の皆さんにも申し訳ないと思った。よくよく考えてみれば、起きてから何も食べていない上にここまで歩いてきたのだから、僕の空腹はピークに達しているはずだったが、緊張のせいかそれはあまり感じなかった。そして並べられる料理を見て僕は驚いた。ちらし寿司だ。ここは高級な店だと思ったが、まさかこんな庶民的な料理まで出していたとは。しかし、彼女と彼女の両親はちらし寿司など食べたことがあるのだろうか?いや、そうとは思えない。現に、彼らは目の前に並べられた「何か」をじっと見つめるだけで動こうとしなかった。・・・僕は、これからのことを考えると頭痛を感じずにはいられなかった。